修の呟き
26日付佐賀新聞読書欄の「新書だより」コーナーに稲葉剛さんの「生活保護から考える」(岩波新書)が「生活保護VS子どもの貧困」(大山典宏さん著、PHP新書)とともに紹介されています。稲葉さんは私のFB友でもあり、早速手に取り読みました。生活保護制度の問題はもとより、様々な問題指摘が胸を打つ本でした。なかでも、生活保護をバッシングする人々の心理状態について、「徴兵制度が存在する国における『徴兵逃れ』をした人々へのバッシングと酷似していると感じています。日本にはもちろん徴兵制度は存在しませんが、兵役のように苦痛に満ちた労働が広がっているがゆえに、そこから逃れたように見える人々を攻撃するという心理が働いているのではないでしょうか」という指摘には衝撃を受けました。また長い引用で恐縮ですが、次の指摘は重要だと思いますのでご紹介します。
「本来、生活保護基準は『健康で文化的な最低限の生活』(ナショナルミニマム)として設定されており、それゆえ生活保護利用者の生活は、いわば日本社会における経済的生活の一番底のラインに設定されていると言えます。その基準を『高すぎる』と感じる人々が大量に存在するという状況は、この社会における貧困の広がりと深さ、働く人々の余裕のなさを示すものだと言えます。
しかし不思議なのは、日本社会では人々の怒りや不満が貧困や格差を生み出している社会構造になかなか向かわない、という点です。2011年秋、『私たちは99%だ』をスローガンとしたアメリカの『ウォール街オキュパイ運動』は世界各国に波及しましたが、日本では、格差・貧困の広がりにもかかわらず、裕福層を批判する社会運動が広範な支持を得ることはありませんでした。
突飛な連想かもしれませんが、この状況は『徴兵逃れ』批判だけでなく、シベリアで抑留された旧日本兵たちの心理状況と似通っているように私は感じられます。
シベリア抑留を経験した詩人、石原吉郎はシベリアの強制収用所(ラーゲリ)の中で日本人たちが鋼索を研いで針を作り、それを密売してパンと交換していたことを記録しています。しかし、針の密売が広がるにつれて、内部からソ連側への密告が相次いだと言います。
石原は『弱者の正義』という文章の中で以下のように指摘します。
『針一本にかかる生存の有利、不利にたいする囚人の直観はおそろしいまでに性格である。彼は自分の不利をかこつよりも、躊躇なく隣人の優位の告発をえらぶ。それは、自分の生きのびる条件をいささかも変えることがないにせよ、隣人があきらかに有利な条件を手にすることを、彼はゆるせないのである』
石原はこうした状況下では嫉妬は『正義の感情に近いものに転化する』と言います。そして、この嫉妬こそ『強制収容所という人間不信の体系の根源を問う重要な感情』だと断言しています。
今の日本社会でもこうした『弱者の正義』が広がっているのではないでしょうか。
自分たちを取り巻く社会環境を主体的に変えることは不可能だ、と感じている人が多数を占めれば、その社会は『人間不信の体系』となり、『隣人の優位の告発をえらぶ』人々が増えるのではないかと私は考えます。そして、隣人が実際に『有利な条件』を手にしているかどうかに関係なく、『優位』に見える人々は正義の名のもとに攻撃されるのです。これは生活保護バッシングのみならず、近年の在日外国人へのヘイトスピーチなどにも共通する心理状況だと思います。
救いがあるとすれば、現代の日本社会は旧ソ連の強制収容所とは違い、絶対的な権力のもとに表現の自由が圧殺される社会には(今のところ)なっていないという点です。
各自が『自分の不利をかこつ(不平を言う)』ことから始めて、自分自身の抱える問題を社会に発信し、社会的な解決を求めていけば、弱い者が弱い者を叩く構造から抜け出していけるのではないでしょうか。
人間不信が渦巻く社会で最初に声をあげる人々は激しくバッシングされるでしょう。しかし、多くの人々が『私も自分自身の権利を主張してよい』と気づき始めれば、状況は反転していくはずです。」
以上ですが、みなさんはどのように感じられたでしょうか。いずれにせよ、一読をお勧めします。

「本来、生活保護基準は『健康で文化的な最低限の生活』(ナショナルミニマム)として設定されており、それゆえ生活保護利用者の生活は、いわば日本社会における経済的生活の一番底のラインに設定されていると言えます。その基準を『高すぎる』と感じる人々が大量に存在するという状況は、この社会における貧困の広がりと深さ、働く人々の余裕のなさを示すものだと言えます。
しかし不思議なのは、日本社会では人々の怒りや不満が貧困や格差を生み出している社会構造になかなか向かわない、という点です。2011年秋、『私たちは99%だ』をスローガンとしたアメリカの『ウォール街オキュパイ運動』は世界各国に波及しましたが、日本では、格差・貧困の広がりにもかかわらず、裕福層を批判する社会運動が広範な支持を得ることはありませんでした。
突飛な連想かもしれませんが、この状況は『徴兵逃れ』批判だけでなく、シベリアで抑留された旧日本兵たちの心理状況と似通っているように私は感じられます。
シベリア抑留を経験した詩人、石原吉郎はシベリアの強制収用所(ラーゲリ)の中で日本人たちが鋼索を研いで針を作り、それを密売してパンと交換していたことを記録しています。しかし、針の密売が広がるにつれて、内部からソ連側への密告が相次いだと言います。
石原は『弱者の正義』という文章の中で以下のように指摘します。
『針一本にかかる生存の有利、不利にたいする囚人の直観はおそろしいまでに性格である。彼は自分の不利をかこつよりも、躊躇なく隣人の優位の告発をえらぶ。それは、自分の生きのびる条件をいささかも変えることがないにせよ、隣人があきらかに有利な条件を手にすることを、彼はゆるせないのである』
石原はこうした状況下では嫉妬は『正義の感情に近いものに転化する』と言います。そして、この嫉妬こそ『強制収容所という人間不信の体系の根源を問う重要な感情』だと断言しています。
今の日本社会でもこうした『弱者の正義』が広がっているのではないでしょうか。
自分たちを取り巻く社会環境を主体的に変えることは不可能だ、と感じている人が多数を占めれば、その社会は『人間不信の体系』となり、『隣人の優位の告発をえらぶ』人々が増えるのではないかと私は考えます。そして、隣人が実際に『有利な条件』を手にしているかどうかに関係なく、『優位』に見える人々は正義の名のもとに攻撃されるのです。これは生活保護バッシングのみならず、近年の在日外国人へのヘイトスピーチなどにも共通する心理状況だと思います。
救いがあるとすれば、現代の日本社会は旧ソ連の強制収容所とは違い、絶対的な権力のもとに表現の自由が圧殺される社会には(今のところ)なっていないという点です。
各自が『自分の不利をかこつ(不平を言う)』ことから始めて、自分自身の抱える問題を社会に発信し、社会的な解決を求めていけば、弱い者が弱い者を叩く構造から抜け出していけるのではないでしょうか。
人間不信が渦巻く社会で最初に声をあげる人々は激しくバッシングされるでしょう。しかし、多くの人々が『私も自分自身の権利を主張してよい』と気づき始めれば、状況は反転していくはずです。」
以上ですが、みなさんはどのように感じられたでしょうか。いずれにせよ、一読をお勧めします。

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