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【暗闇に耐える思想】

2014.09.27(20:02) 1913

【暗闇に耐える思想】
 花乱社選書の松下竜一講演録「暗闇に耐える思想」を読み終えました。改めて松下さんの想いを噛み締めました。多くの方にもぜひ読んでほしいと思います。
 冒頭、1972年12月16日付朝日新聞西部本社版の学芸欄に書かれた「暗闇の思想」が載っています。少し長めですが紹介します。明日(28日)、鹿児島で川内原発再稼動反対集会が開催されますが、「暗闇の思想」から、EPSON123.jpg
現代の文化を問い直し、原発がない社会を実現しましょう。

 あえて大げさにいえば、<暗闇の思想>ということを、このごろ考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。
 きっかけは、電力である。原子力を含めて発電所の公害は、今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。
 元々、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を付き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者なら既に気づいている。
 かつて佐藤首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、とめてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化をも拒否出来る思想が。
 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇がある。友は、極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は、夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私達の語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、なにかしら思惟(しい)を根源的な方向へとしずめていく気がする。それは、私達が青春のさなかに居たからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟から遠ざかってしまったが、本当は私達の生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今は必要な時はないのではないか、とこのごろ考えはじめている。
 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの発電所をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。年10%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貧欲な電力需要は必然不可欠であろう。
 しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効果の枠内で解消しがたい。そこで、電力会社と良識派を称する人々は、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出て来る。
 本当ならこういわねばならぬのにーだれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。
 じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貧欲な電力需要をやめて、しばらく沈静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。低硫黄重油、ナフサ、LNGを真に確保できるか、それを幾年かにわたって実証しよう。しかるのち、改めて衆議して、建設を検討すべきだといいたいのだ。
 たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、一体そんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動は、かりそめごとではあるまい。公害による人身被害、精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。
 「一体、物をそげぇ造っちから、どげするんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成(かざなし)で、志布志で、佐賀関で漁民や住民が発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば<暗闇の思想>にも行きつくはずなのだ。
 いわば、発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろとふるさとへの回帰、村の暗がりをなつかしいとする反開発志向の奥底には、<暗闇の思想>があらねばなるまい。
 まず、電力がとめどもなく必要なのだという現代の絶対神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへのきびしい反省で、それは可能となろう。
 冗談でなくいいたいのだが、<停電の日>をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でも、テレビ離れした<暗闇の思想>に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか。冷えびえとするまで思惟してみようではないか。
 私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。
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