自主避難者は日本の評価を下げるのか 国の論理に仰天
大月規義
@ohtsuki_n
大震災10年。問題の本質をあぶり出す
東京電力福島第一原発の事故をめぐる裁判を取材していると、報道するのをためらいたくなる主張に出くわす。1月21日に東京高裁が判決を言い渡した損害賠償請求の控訴審で国側が展開していた奇妙な論理もそうだった。裁判の勝ち負けも重要だが、プロセスから見えてくるものも大事に思える。
「正義にも人道にももとる主張でした。私たちに長期間の恐怖と実害を与えたうえ、開き直ったようでとても看過できませんでした」
控訴審の判決を1週間後に控えた14日午後。原告の弁護士や原発避難者が勉強会を開いた。新型コロナ対策のため、出席者数が制約されるなか、原告の一人、丹治杉江さん(64)が裁判で受けた屈辱を語った。
丹治さんは、避難指示が出なかった福島県いわき市から前橋市に避難した、いわゆる自主避難者だ。原発事故の避難者はピーク時に16万人いたが、その半数は国から強制避難指示を受けない地域に住んでいた。
丹治さんらは、いったい国から何を言われたのか?
「容認できない」のはどちらだ
原発事故の責任を認めて適正に賠償するよう求める避難者に対し、国は2019年9月の第7回口頭弁論でこう反論した。「自主的避難等対象区域での居住を継続した大多数の住民の存在という事実に照らして不当である上に(中略)、ひいては我が国の国土に対する不当な評価となるものであって、容認できない」
言葉を補って平たく言えば、「自主避難などする必要はなく、そうした人たちに賠償すると、放射能汚染がまだ続いているかのようで、日本の国土の評価が落ちる」という理屈だ。
原告の関夕三郎弁護士らは、この反論の書面をあらかじめ読んで驚いた。口頭弁論の当日、「本当に陳述するのですか」と国側に念を押したという。だが、国側の弁護士は「陳述します」と引かなかった。原告団は口頭弁論の後、その内容を容認せず、「国の暴論」と抗議した。
失われる信用
原発事故の賠償責任をめぐる集団訴訟は、全国約30カ所の裁判所で繰り広げられている。丹治さんらが起こした裁判の一審は前橋地裁で争われ、初めての判決が17年3月に言い渡された。被告の国も東電も津波を予測できたと認定して賠償を命じた内容は、大きく報じられた。その後、原告、被告とも控訴した。
二審の東京高裁は、一審が認めた国の責任を取り消した。だが、自主避難の合理性は認め、東電が払う賠償額を増やした。原告弁護団によると、判決で「国土の評価」について判断された記載はまったくなかった。つまり「国の暴論」は避難者の心情を逆なでしただけ。下がったのは国土の評価ではなく、政府に対する信用のほうだったと言える。
別の裁判も忘れられない。
20年3月に仙台高裁が出した判決では、被告の東電が完敗し、現状の賠償金では不足していると認定された。
この裁判の過程で私は東電の主張に、どうしようもない違和感を覚えた。避難指示が出された市町村ごとに復興の状況を列挙し、避難者の損害が解消されているように描いていたのだ。
たとえば、第一原発が立地し、放射線量が最も高くなった大熊町について。
線量が低い地域で水田の試験栽培が行われていることを紹介した読売新聞(19年10月11日付)の記事を引用し、「大熊でも安全なコメができることを発信し、農業再開を考えている人たちの励みになれば」という地元農家のコメントを証拠として記載した。大熊のなかでも復興に向け歩み出している、ごく一部だけを強調している。現実はといえば、町の大半は今も避難指示が解除されていない。
訴訟戦術とはいえ
裁判では、勝った負けた、白か黒かをはっきりさせる。原告vs被告、検察vs被告人と対立する者同士は、何が「真実」かで争うというより、どう主張したら裁判官に採用されるかに重きを置く。訴訟戦術といえる。
それにしても、である。避難者や被害者の前で国や東電が展開した主張は、避難者や復興の現状に対する誤解や偏見、風評を助長するのではないか。
自らが風評のタネとなりかねない主張をする一方で、第一原発にたまる処理水を海に放出した場合などの風評被害対策を講じている。説得力はない。原発事故を心の底から反省してはいないのだろう、と疑いたくなる。
原発事故では様々なものが壊れた。普通の生活、ふるさと、絆……。お金での賠償や復興の工事によって、形だけでも取り戻せるものはある。しかし、政府が失った信用は回復する日がくるのだろうか。
大月規義
@ohtsuki_n
大震災10年。問題の本質をあぶり出す
東京電力福島第一原発の事故をめぐる裁判を取材していると、報道するのをためらいたくなる主張に出くわす。1月21日に東京高裁が判決を言い渡した損害賠償請求の控訴審で国側が展開していた奇妙な論理もそうだった。裁判の勝ち負けも重要だが、プロセスから見えてくるものも大事に思える。
「正義にも人道にももとる主張でした。私たちに長期間の恐怖と実害を与えたうえ、開き直ったようでとても看過できませんでした」
控訴審の判決を1週間後に控えた14日午後。原告の弁護士や原発避難者が勉強会を開いた。新型コロナ対策のため、出席者数が制約されるなか、原告の一人、丹治杉江さん(64)が裁判で受けた屈辱を語った。
丹治さんは、避難指示が出なかった福島県いわき市から前橋市に避難した、いわゆる自主避難者だ。原発事故の避難者はピーク時に16万人いたが、その半数は国から強制避難指示を受けない地域に住んでいた。
丹治さんらは、いったい国から何を言われたのか?
「容認できない」のはどちらだ
原発事故の責任を認めて適正に賠償するよう求める避難者に対し、国は2019年9月の第7回口頭弁論でこう反論した。「自主的避難等対象区域での居住を継続した大多数の住民の存在という事実に照らして不当である上に(中略)、ひいては我が国の国土に対する不当な評価となるものであって、容認できない」
言葉を補って平たく言えば、「自主避難などする必要はなく、そうした人たちに賠償すると、放射能汚染がまだ続いているかのようで、日本の国土の評価が落ちる」という理屈だ。
原告の関夕三郎弁護士らは、この反論の書面をあらかじめ読んで驚いた。口頭弁論の当日、「本当に陳述するのですか」と国側に念を押したという。だが、国側の弁護士は「陳述します」と引かなかった。原告団は口頭弁論の後、その内容を容認せず、「国の暴論」と抗議した。
失われる信用
原発事故の賠償責任をめぐる集団訴訟は、全国約30カ所の裁判所で繰り広げられている。丹治さんらが起こした裁判の一審は前橋地裁で争われ、初めての判決が17年3月に言い渡された。被告の国も東電も津波を予測できたと認定して賠償を命じた内容は、大きく報じられた。その後、原告、被告とも控訴した。
二審の東京高裁は、一審が認めた国の責任を取り消した。だが、自主避難の合理性は認め、東電が払う賠償額を増やした。原告弁護団によると、判決で「国土の評価」について判断された記載はまったくなかった。つまり「国の暴論」は避難者の心情を逆なでしただけ。下がったのは国土の評価ではなく、政府に対する信用のほうだったと言える。
別の裁判も忘れられない。
20年3月に仙台高裁が出した判決では、被告の東電が完敗し、現状の賠償金では不足していると認定された。
この裁判の過程で私は東電の主張に、どうしようもない違和感を覚えた。避難指示が出された市町村ごとに復興の状況を列挙し、避難者の損害が解消されているように描いていたのだ。
たとえば、第一原発が立地し、放射線量が最も高くなった大熊町について。
線量が低い地域で水田の試験栽培が行われていることを紹介した読売新聞(19年10月11日付)の記事を引用し、「大熊でも安全なコメができることを発信し、農業再開を考えている人たちの励みになれば」という地元農家のコメントを証拠として記載した。大熊のなかでも復興に向け歩み出している、ごく一部だけを強調している。現実はといえば、町の大半は今も避難指示が解除されていない。
訴訟戦術とはいえ
裁判では、勝った負けた、白か黒かをはっきりさせる。原告vs被告、検察vs被告人と対立する者同士は、何が「真実」かで争うというより、どう主張したら裁判官に採用されるかに重きを置く。訴訟戦術といえる。
それにしても、である。避難者や被害者の前で国や東電が展開した主張は、避難者や復興の現状に対する誤解や偏見、風評を助長するのではないか。
自らが風評のタネとなりかねない主張をする一方で、第一原発にたまる処理水を海に放出した場合などの風評被害対策を講じている。説得力はない。原発事故を心の底から反省してはいないのだろう、と疑いたくなる。
原発事故では様々なものが壊れた。普通の生活、ふるさと、絆……。お金での賠償や復興の工事によって、形だけでも取り戻せるものはある。しかし、政府が失った信用は回復する日がくるのだろうか。
スポンサーサイト