修の呟き

戦後の日本国憲法体制下で昭和天皇は「象徴天皇」ではなかった

杉野です。

http://tyobotyobosiminn.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/50-3ab9.html

2017年7月13日 (木)
戦後の日本国憲法体制下で昭和天皇は「象徴天皇」ではなかった=講和条約と50年安保で吉田茂をさしおいてアメリカと交渉、反共産主義・沖縄放棄・対米従属の「安保国体」を創り上げた昭和ヒロヒト天皇 他(昨今の政治情勢から)
前略,田中一郎です。
(別添PDFファイルは添付できませんでした)

日本現代史研究で定評のある豊下楢彦氏(元関西学院大学教授)が、少し前に大きな話題となった『昭和天皇実録』と、それに関連した膨大な量の新たな資料を読み込み、このほど(と言っても、もうだいぶ時間がたちましたが)『昭和天皇の戦後日本:<憲法・安保体制>にいたる道』(岩波書店 2015年7月)として新著にまとめられました。これまでも同氏の著書については、時折、私のメールでもご紹介をしておりますが、今回ご紹介するこの新著も、読みだすと引き込まれそうになるくらいに、非常に興味深い、我が国の戦後史の深層を明らかにしてくれている名著だと思いました。以下、同著から若干の部分をご紹介し、一般・通俗的に広まっている戦後の昭和天皇像や当時の総理大臣・吉田茂像とはちがう、「歴史の真実」をみなさまにも見ていただきたいと思います。

(ところで、余談になりますが、昨今の日本では、大学が駄目になってしまったのと同時並行で、大学教授・研究者どもも駄目になってしまっており、この「戦後史」という、現代日本理解に必要不可欠な研究分野でさえもが、半ばスカスカ状態になっています。むしろ日本の戦後史をよく研究し、昨今では優れた著作まで出されるようになっているのは、海外の研究者群です(たとえばジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店))。情けなくも恥ずかしい限りですが、今回ご紹介する豊下楢彦氏や、史学が専門ではありませんが若手研究者の白井聡氏、あるいは被ばくの戦後史で著名となった高橋博子氏らが、戦後史研究に新しい息吹を吹き込んで、私たちの目の届くところで貴重な著作を出してくださっていることには感謝申し上げたいと思います)

(重要)『昭和天皇の戦後日本〈憲法・安保体制〉にいたる道』(豊下楢彦/著:岩波書店)
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000033298705&Action_id=121&Sza_id=B0

(関連)豊下楢彦氏の著書
 http://urx2.nu/EGjf
(関連)豊下楢彦氏が書かれた国民必読の3冊 あしたの朝 目がさめたら
 http://blog.livedoor.jp/wakaben6888-3745ta/archives/25875242.html
(『尖閣問題とは何か』(岩波現代文庫)や『集団的自衛権とは何か』(岩波書店)など、豊下楢彦氏には高い評価を受けている必見必読の著書がたくさんあります。みなさまには、今回ご紹介する新著とともに、こうした同氏の既著作にもぜひ目を通されることをお勧めいたします:田中一郎)

豊下楢彦氏のこの著作については、少し前ですが、私のメールで少しばかりご紹介したことがあります。下記サイトの最後の方をご覧いただきたいのですが、戦後日本において、向こう見ずの不勉強チンピラ右翼などから忌み嫌われている日本国憲法や東京裁判は、実は昭和天皇が当時の国際情勢を日本国中の誰よりもよく心得た上で、占領軍(在日米軍)・マッカーサー・GHQと緻密なやり取りを行い、いわばコワークするような形で実現させていったものです。GHQが占領統治に天皇をうまく使う一方で、逆に天皇の側もGHQの意図するところを利用して、うまく天皇制と皇室の維持存続や、きたる共産主義台頭の脅威に対して米軍による抑え(国内)、並びに防衛(対外)を確保するという、持ちつ持たれつの関係を築いていった、ということなのです。、こうしたことが、豊下楢彦氏のこの新著の最初の部分に出てきます。

(関連)本日(5/25)のいろいろ情報です:こんな自民党なんぞにまだ投票するのですか? やめさせるのはあなたの選択=選挙権行使です & 『昭和天皇の戦後日本』(豊下楢彦著:岩波書店)より いちろうちゃんのブログ
 http://tyobotyobosiminn.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-3ead.html

つまり、GHQ主導の戦後改革の底流には、アメリカ本国からやってきたニューディール派の理想主義的な改革実践から、やがて冷戦下における対ソ防波堤国家としての日本の再生復興へと変遷をしていく、その戦後史に絡みつくように、昭和天皇の反共産主義・沖縄放棄・対米従属という特徴を持つ「安保国体」を創り上げる暗躍があったのです。少なくとも、昭和天皇は、日本国憲法にうたわれた「象徴天皇」などではなかった。吉田茂とその手下たちのみならず、それとは対立的な政治家だった鳩山一郎らのグループなども使って、GHQ・マッカーサー、そしてその後は、講和条約交渉のアメリカ代表となって幾度か来日したJ・フォスター・ダレスなどとうまく交わり、公職追放された戦犯の復権なども同時に働きかけつつ、戦後日本の歩むべき「レール」を敷いていたということです。

(昭和天皇は、戦争最高責任者としての当時の天皇批判の国際情勢をよく認識しており、マッカーサーとの意見交換や側近を使ったGHQへの説得工作などにより、天皇制を象徴天皇制として残すことで天皇と皇室の温存を図り、また戦争責任を東条英機以下の昭和軍閥たちに負わせることで自身の戦犯(戦争最高責任者)としての責任を不問にもちこみ、返す刀で、日本国憲法の平和条項=戦争放棄のみならず戦力の放棄を行う、などのGHQ(+昭和天皇合作?)プランを合意す(受け入れ)ることで、大日本帝国による再侵略の悪夢から世界を解放した。事が概ねなったのちに、昭和天皇はマッカーサーや在日米軍・GHQに感謝をしている。そして、戦後民主化が生み出した日本社会の政治的激動化や社会改革運動の渦に加え、ソ連・中共との冷戦と国内における共産主義勢力の急速な台頭を新たな「(戦後天皇制への)大きな脅威」ととらえ、それに対して、沖縄をアメリカの統治下に置かせて米軍基地用地を提供するとともに、本土にも在日米軍を常置して、国内外の共産主義勢力や激化する社会運動の押さえに利用しようとしたのだった。1945年8月から始まる昭和天皇の戦後史において、昭和天皇は決して日本国憲法がうたう「象徴天皇」などではなかった)

今回ご紹介する部分は、1950年=つまり朝鮮戦争の少し前から始まる講和条約交渉(日本の主権回復交渉)と、それと並行して行われていた日本の安全保障問題に関する日米関係者の動きの部分です。もちろん、昭和天皇の動きが中心です。サンフランシスコ平和条約=講和条約そのものについては、日本政府も昭和天皇もほとんど問題視していません。むしろ敗戦国に対して非常に寛大なありがたい条約であると絶賛していました。巷では、ソ連・中共や南北朝鮮・台湾を含む全面講和か、いわゆる自由主義国家群=欧米諸国中心に平和条約を締結する片面講和かが大議論となっていましたが、吉田茂以下の政府と昭和天皇との間で、講和条約そのものについての考え方の違いはなかったようです。

問題は、もう一つの方、つまり戦力不保持を決めた日本国憲法の下で、主権回復ののちに、日本の安全保障をどうするかで、吉田茂の日本政府と昭和天皇との間にかなりの違いがあり、結論だけを簡単に申し上げれば、吉田茂は日本国土を米軍基地として差し出すことも、在日米軍がいつまでも日本に駐留することも、そして、日米が国連による安全保障とは無関係に単独で軍事同盟の様なものを結ぶことも、いずれも消極的だったようです。また、再軍備についても、頭から拒否はしていなかったようですが、経済的な負担の面から見ても、大掛かりなものに関しては否定的であったようです。

しかし、この安全保障問題というのは、日本にとっては大事であっても、アメリカにとってはそれほどではありません。当時、アメリカが対ソ・対中共との冷戦構造の下で、講和条約後の日本に対して最重要と考えていたことは「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得する」ということでした(⇒ 京都大学の政治学者・高坂正堯(まさたか)は、当時の日米間交渉での最重要事項を「日本の再軍備」とみて、当時の吉田茂首相が軽武装・経済重視をとなえてダレスに抵抗したことを高く評価、これを「宰相吉田茂論」にまとめました。それが戦後日本では広く流布していますが、これは間違いであると豊下楢彦氏は言及しています。当時の日米交渉のポイントは「日本の再軍備」ではなく、在日米軍の維持・継続をどうするかでした)。これについて、アメリカやダレスに押しまくられることを嫌った吉田茂は、なんと講和条約締結の直前まで逃げ回り、講和条約締結の全権者としてサンフランシスコ講和条約(+日米安保条約)の会場に行くこと(参加すること)さえをも拒否し続けていたというから驚きです。高坂が創り上げた吉田茂の虚偽の人物像はそろそろ捨て去る時が来ているような気がします。

ところが昭和天皇はそうではありませんでした。昭和天皇は、冷戦下の国連のような機能しそうにない国際機関に頼るのでは全く心もとないので、むしろアメリカが国連でのやり取りとは別次元で、日本と単独で軍事同盟のようなものを締結し、上記で申し上げたような国内外の共産主義ににらみをきかす、そういう半恒久的な在日米軍の維持継続を強く望んでいたのです。従ってまた、昭和天皇から見ると、吉田茂のような講和条約政策は、戦後の天皇制や皇室の地位を危うくする誤った政治方針であり、何としても転換させる必要があると考えていたに違いありません。事実、昭和天皇は、当時公職追放中だった鳩山一郎他のグループを使って、ダレスやその側近たちとの交渉を開始するのです。

詳しくは、原本をご覧いただきたいですが、結局、実を結んだのは昭和天皇の方の動きで、いわゆる「50年安保条約」は、(1)アメリカに日本防衛の義務がない、(2)国連安全保障との関係があいまい、(3)在日米軍が日本国内の「内乱」に介入できる、(4)「新植民地規定」ともいうべき日米行政協定が結ばれる、という大きな欠陥を抱えたままで締結されることとなりました。吉田茂以外の閣僚や側近、外務省などの幹部官僚たちも、この旧安保条約の内容は締結調印の直前までその詳細を知らされず、調印式にも吉田茂一人が、わびしい場所に連れていかれてサインをするという、とても正常な条約協定調印とは思えない「屈辱的」な形となりました。そして、こうした欠陥が露呈してしまった基底には、安保条約交渉において、日本側が(吉田茂首相が)(1)アメリカの要請ではなく日本が要請して基地を置き、アメリカの自由な利用を決めた、アメリカは恩恵として日本の防衛を供与する、という形となったこと、(2)極東条項を簡単にOKしてしまったこと(本来は日本の領海内だけでいい)、(3)沖縄および千島列島の放棄も簡単にOKとしてしまったこと、があります。そして、結局は上記で申し上げたアメリカの希望(ダレスの目標)だった「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得する」が実現してしまうのです。

日本はこの時に、講和後の戦後の国の在り方を大きく誤ったのではないでしょうか。しかし、その水面下には、吉田茂首相だけではなく、それ以上に昭和天皇の動きがあったということが、この豊下楢彦氏の新著で教えられたことでした。昭和天皇は、戦後すぐの諸改革の時代のみならず、日本が主権を回復し、国際社会に参画していく、そのスタートの時点から、「象徴天皇」などではなかったのです
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  1. 2017/07/13(木) 19:54:07|
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佐賀市在住です。平和や障がい者、有明海問題に強い関心を持っています。1950年生まれ。戦争法廃止、原発廃止、有明海再生、障害者と共生できる社会づくりを目指します。

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